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最後に救われるのは誰か~死刑 [book]


すごく読みたい本でした。
でも買えない本でした。

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

  • 作者: 森達也
  • 出版社/メーカー: 朝日出版社
  • 発売日: 2008/01/10
  • メディア: 単行本

 


もちろん買うお金がないというわけではありませんし、お金を払ってまで読みたくない
ということではありません。
“手元に置いておくことが怖い本”
というのが正確ではないですが一番近いと思います。

まずこの著者の“森達也”氏について少々。
ワタシ、この方の名前は知っていました。
この方はオウム真理教を追ったドキュメンタリー作品

A

A

  • 出版社/メーカー: マクザム
  • メディア: DVD

とその続編

A2

A2

  • 出版社/メーカー: マクザム
  • メディア: DVD

を製作した方です。
この作品ですが実はちゃんと観ていません。
レンタルにあったので借りたのですが、(少なくとも)借りたそのときのワタシに
とってはあまりにもつまらなかったのです。
確か「A」については途中で観るのを止めてしまいましたし、「A2」は観もしないで
返却してしまったと思います。

後日よく行く映画の感想ページにてこの作品の感想を書かれている方がいて、そこで
内容をなんとなく知ったのですが、「A」はオウムと警察の現場レベルでの関わっている
姿などを記録していて、「A2」においてはオウムとその地域住民の関わっている姿などを
記録しているようです。
どおりで当時のワタシにはつまらなく感じたわけです。
だってワタシはオウムの起こしたサブタイトルがつくような大きな事件に興味が
あったわけで、オウム真理教がどんな団体かなどはどうでも良かったわけですから。
当時の森氏はこの作品を制作したことによって報道の現場から遠ざけられていたようです。
そして彼をそのような状況に追いやった人たちはこの作品を観たことの無い人たちばかり
であったと思われます。
ということはワタシも森氏を追いやる側の人間であったと言えます。
そんな風に『森達也』の名前を知っていたワタシがいつものように書店巡りをしていた
ときに見かけた印象深い表紙と漢字二文字をもつ本がこの作品です。


「いや、そうでもないだろ。今の検察なら何でもやる」

この本は2006年12月30日に執行され、その様子がネットのみならずテレビでも
見ることのできたサダム=フセインの絞首刑から始めの一歩を踏み出します。
これは森氏の旅の記録です。
まず彼が向かったところは死刑廃止を推進する市民団体の来年会の会場です。
そこで振舞われたのはいわゆる密造酒と呼ばれてしまうもの。
それを酌み交わしている席での会話における一言です。

犯罪がおき、容疑者が確保されて裁判になるとそこでは検察と弁護人の二項対立
の構図となります。
容疑者を弁護するのが弁護士。事件を立件するのは検察。
では被害者を救うのは誰?
検察は被害者を助する組織ではなく事件そのものを立証するのみです。
検察は人を救うために動く組織ではないのです。
もちろんその行為がひいては人を救うことに繋がっている指摘については全くそのとおりだと
思います。それは正しい論旨です。正論です。

次に森氏の向かったところは死刑が行なわれる場所。
そこでどのようなことが行なわれているのか。ワタシは想像以上に知らないこと
思い知らされました。
なにせ教えてくれないんです、聞いても。
そして答えが無いんです、何故そうなっているのかの。

国家という組織が合法的に人をころす装置。
それはどんな文献や資料を紐解いても見つからない。
絞首台に繋がる階段が十三階段であるという証拠の画像があるのでしょうか。
処刑に立ち会う人たちは何も語りません。もちろんそこに足を運んだ死刑囚も。

有名な話ですが海外では処刑の場に被害者やその他の人たちが立ち会う
こともできます。
ところによってはHPなどで実際に処刑に使用される道具などについても写真を
公表し、どのように行なわれるかの具体的な解説もされているようです。
でも日本のそれは知ることができません。
たとえワタシ自身が犯罪被害者になったとしても、です。
ワタシたちは“日本において死刑とは絞首刑で行なわれている”以上のことを
知らないし、知ることができないのです。
その部屋の壁の色、階段が何段あるのか、ロープはどれくらいの太さなのか、
明かりは蛍光灯なのか電球なのか。

そんなのはどうでもいいと言い切れる人はたくさんいるでしょう。
だってワタシは死刑になるようなことはしないから。
それを否定する気はありません、もちろんそんな人がわんさかいたら困ります。
でももし犯罪被害者になったら?
それでもそんなことはどうでもいいと言い切る自信はワタシにはありません。
日本では処刑に立ち会えない。
だったらワタシの日常を永遠に壊した憎き犯人がどのような最後を遂げたのか、
そのほんのわずかなかけらでさえも得たい、知りたいと思うことでしょう。

死刑廃止論者の一人に“亀井静香”議員がいます。
彼は森氏とのインタビューの中で報復論についてこのように言います。

「……そんな報復感情の延長にあるのが戦争です」

これも死刑存置派の人から言わせれば理想論であり、きれいごとにしか聞こえないでしょう。
そもそも法は被害者から報復する権利を取り上げ、それに対して国が処罰するという
前提を置いているわけですから、国が報復してくれないとなれば。。。

それと亀井議員についてはもうひとつ重要な事があります。
ご存知の方も多いかと思いますが亀井議員は警察官僚出身の政治家です。
(※ちなみにワタシは知りませんでした)
その警察機構というものをよく知っている人が言うのです。

「……警察官僚出身だからこそ、冤罪がいかに多いかを私は知っています」


冤罪について今回はワタシの思うところは書きません。
ここでは報復について考えたことのみを述べたいと思います。
この報復について恐らくは誰もが知っている有名な一節があります。

『目には目を』

ハンムラビ法典からの一節で、“タリオの法則”と言われるものだそうです。
応報論について表したものでは最も有名なものでしょう。
ですがこの手のことばは簡潔であり、明瞭であるからこそ、むしろその真意が損なわれて
行くのだと思います。
ハンムラビ法典が上梓されるまでの経緯をつぶさに見ていくとこれは“応報”という
ひとことで済ませられるものではなく、むしろ倍返し、三倍返しのような
過剰な復讐の拡大と連鎖を戒めるためのも
だったのです。
親を殺されたから相手の一族すべてを殺す。
家族を殺されたから相手の国を滅ぼす。
これはすでに“目には目を”ではありません。
9.11のテロで亡くなった人たちは3000人を超えると言われます。
ではその後のアフガン侵攻で命を落とした人の数は?
アメリカのしていることは“目には目を”ですらないんです。


「日本では捕まったら有罪確定やもん。裁判の前に社会から抹殺されますよ。これが日本の現状ですわ。特にマスコミがダメ。国民もメディアも、検察がやることは常に正しいというような認識を持っている」

近代司法の精神は推定無罪だったと思います。
疑わしきは罰せず。あるいは、疑わしきは被告人の利益に。
でもこの国は一度でも「クロかも?」と疑われたら別の容疑者が上がらない限り
ずっとそれがつきまといます。
それは警察、検察が間違うこと以上に、マスコミがその人をころしてしまうのです。
先日自殺したロス疑惑の三浦氏。
彼はなんであれほどまでにメディアに追い立てられなければならなかったのでしょうか?
そこに近代司法の精神はかけらも見て取れません。
もちろん日本の検挙率の高さは確かなものです。
でも100で無い以上、あるその取りこぼし。
その中にいる人が名誉を回復することはありませんし、前科を持ったものに対して
やり直す機会がこれほどまでに無い国が近代司法の精神に基づいた法治国家だとは
ワタシには思えません。
容疑者本人はもちろん、その家族にまで及ぶ責めと罪(とが)。
以前も何かで書いたかも知れませんが、そこには日本独特の『穢れ』という
ものが大きく作用しているように感じます。


「同じ空気を吸いたくないんだ」

森氏の死刑を巡る旅も終わりに近づいてきます。
その終わりにいるのは被害者であり遺族です。最も救われなければならない人たちです。
ワタシと同じく犯罪被害者になったことのない人は、もしその立場に立ったら、という
ことを想像したときに大抵は「死刑存置」という意見になると思います。
そこにいたるまでには色々な議論がなされることでしょう。
法解釈や社会論、たくさんの道筋があり、たどり着くところが「死刑存置」だとします。
でも議論不要で被害者という立場に立たされてしまった場合、そこにあるのは
むき出しの感情ではないでしょうか。

「同じ空気を吸いたくない」

子供のときにとても嫌いな誰かに対してワタシも使ったかもしれない言葉です。
でも愛する人を奪われたとき、以前の慎ましやかで平凡な生活に戻れなくなったとき。
そんなときにこの言葉を発したとすればその重さは。

“Don't be”
人に言ってはならない言葉だそうです。
でも「同じ空気を吸いたくない」を英訳するとなればこれが最も適したものではないでしょうか。


犯罪被害者に対する救済が叫ばれて、ようやくこの国でも彼らを本当の意味で救うには
どうしたらいいのかを考えるようになってきました。
それを考えるためにとても大切なことがあると思います。
それは死刑を望まない遺族の話です。

実の弟を殺害されたこの方は最初は犯人を激しく憎悪して極刑を願います。
ですが獄中から何度も謝罪の手紙をもらい、その反省の念に触れるとともにその犯人の
身内が逮捕後に自殺したことを知り、彼を処刑しても誰も救われないと考えるように
なったそうです。このことを彼は以下のように語ったとのこと。

「検察やマスコミは崖下に突き落とされた弟や自分達家族が死に、傷ついているのを見て崖の上から
『痛いだろう、かわいそうに』
と言いながら犯人とその家族を崖から突き落とそうとしています。
最初は犯人にも自分と同じ目にあわせてやろうと考えていたのですが、ふとあるときに自分の
気持ちはそんなことをもとめているのではなく、自分達が元居た崖の上に戻りたいと
願っているだけだと気付くのです。
ですが崖の上にいる人たちは誰一人として『ひきあげてやるぞ』とは言わずに、
『こいつらも同じ目にあわせてやったんだからいいだろう』
といって、崖の上で平和に暮らしているのです」


それと近年では最も注目された死刑にまつわる事件とその被害者、光市母子殺害事件の
本村氏とも森氏は言葉を交わしています。
ワタシはこの事件の差し戻し審の頃、文芸誌に寄稿された本村氏の文章を少しだけ
目にしました。
そこには凄惨な光景があります。あまりのことにワタシはその文章を全部読むことが
できませんでした。

ワタシには犯人がいくら悔悛して反省を述べてきたとしても自分の気持ちを変えられてしまう
ことはないと考えています。
そもそも人が人を変えようというのはおこがましく、そして不可能であるというのが
持論だからです。
人は変わることができます。でも人を変えるということはできないと考えるのです。
でももし自分が崖の下に落とされたときのことを想像するとそれは同じに思うのです。
自分が望むものは犯人を自分のいるところに引きずり落とすことなんかどうでもよくて、
まずは崖の上に戻りたい。そして戻れることができれば初めてそこで犯人に対して
何かを思うことができるんじゃないかと思うのです。


ワタシはこの本を読む前も読んだあとも死刑は存置すべきと考えます。
でも“存置”か“廃止”かの境界線との距離は本を読む前よりも読んだあとの方が確実に
近いものになったと感じています。

森氏はまだこの問題は考え続けるものと前提した上で、この本を閉じるために死刑廃止
という意見を最後に述べておりました。

この問題は二値論です。“有り”か“無し”か。
今の日本の答えは“有り”です。
ですが明日の日本の答えは“無し”かも知れません。

大切なのはまず考えること。
“有り”も“無し”も正解で不正解です。
それは犯罪者にとっても被害者にとってもです。
そしてワタシにとっても、だと思うのです。

 

 


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のりドム&みさドム

まじめに行動しないのりドムには難しい内容です。

が、
敢えて言うなら自分も存置派です。
マスコミの報道では視点をずらされてしまってますが、
極刑に値するほどの罪を犯したからこその刑だと思います。
罪を犯してもリセットできる世界なんて間違ってます。
完全にはリセットできないと言う人もいるでしょう。
でも被害者、その家族や仲間が失ったものは永遠にリセットできないんですから。

死刑の廃止、存置よりも、
犯罪抑止力を失ったこの国の在り方が問題ではないでしょうか?
by のりドム&みさドム (2008-10-14 23:09) 

和-nagomi

◇のりドムさん
この本を読んでからあと、いろいろと本を読んで今ではこの記事を上げたときとはまた違った位置に立っている自分を感じます。
それについてはまた別の機会があればそちらにゆずることとして、Blogに書き留めることってそのときの自分の考えとか思考を保存することなのかも知れませんね。

この国の司法もこの記事を書いたときから一年も経っていませんが大きく変わりました。
この制度が正しいか正しくないかはさておき、ある限りは誰にも起こりうる可能性。
そこで自分が本当に後悔しない、責任を持てる結論を下せるように、ワタシはこれからも考えることを止めないでいたいと思う。
このことはこの記事を書いてからも変わることがありません。


by 和-nagomi (2009-08-18 23:24) 

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